いやはや、Covid-19の感染状況は一進一退ですね。現在は20〜30代の感染者数が多いようですが、拡散力がある年代だけに次のフェーズは年齢層が上がっていくんでしょうか。ロスジェネでアラフィフなファットおじさんなのでちょっとビビってる男、saltwater-ffです。こんばんは。まぁ夜の街にはとんと縁がないんですけどね。

まぁ心配しても仕方のないことを心配するのは時間の無駄なので、いたって普通に過ごしてますが、うがい薬の買い占めは落ち着いたのかな? 知らんけど。でもまぁ、トイレットペーパー買い占めとかは正直勘弁して欲しいです。ウチ、ちょうど切れかかってるんですよ(買えよ)。

本当ならこの夏は浜名湖か琵琶湖か四国へでも行って釣り三昧したいなぁ……と、こっそり計画していましたが、都民は他府県をうろちょろすんな!と言われてますので、都内で大人しく過ごしてます。まぁお盆時期はいつも釣りをしないようにしているので、行けなくてもあんまり苦じゃないんです。暑すぎるってのもありますし。

さてさて、本日はちょっとした思い出話の回です。魚の写真は出て来ませんのであしからず。何の話かって言うと、水草が生い茂った水辺のお話です。

「ウォームウォーター」なんていう呼び名を知らなかった幼い頃。父の転勤で新しい地域へと引越しが決まり、その年の春から小学校へ入学することになった。新しい土地での月日はあっという間に過ぎ去ったが、当時すでに釣りの楽しさを知っていた私は、新しい家の近くにあった池をちょくちょく見に行っていた。学校の行き帰りや友達と遊んだ後など、1日に何度も見に行くこともあった。

本当は釣り道具を持って行きたかったのだけれど、一人で釣りに行くのをまだ許されていなかったので、そこは言いつけを守っていた。というか、当時の私はまだ自分の釣具を持っておらず、我が家の釣具の大部分は父の管理下にあったので、おいそれと持ち出せなかったのが正直なところ。

それでも池で釣りをしている人がいれば、どんな魚が釣れているか、エサは何を使っているかを聞いて自分なりに“釣りの端っこ”を楽しんでいた。釣り人がいなくても水面に広がる波紋を見つければ、躍起になって魚影を探したし、大きなコイの群泳を目撃した日は興奮から、その様子を絵に描いて両親に見せたりしていた。

今思えば池の規模こそ小さかったが、流れ込み&流れ出しあり、アシ原あり、人工構造物あり、地形変化ありと、教科書的な要素が詰まっていたように思う。中でも5月以降に水生植物が繁茂する様は素晴らしく、最盛期は池の3分の2ほどを覆い尽くした。

水面を覆った水生植物の大半はヒシ藻で、ところどころにホテイアオイ、一部のエリアにはハスが大きな葉を広げていた。他にも流れ込み付近にはキンギョ藻が群生していたし、かろうじてコンクリート護岸を免れた岸には、テニスコート2面くらいのアシ原が残されていた。

今思うととにかく植物相が豊かな池だった。いや、40年前はまだこういった池がたくさん残っていて、何も特別なことという意識はなかったように思う。流れ込みの近くにビンドウを沈めて一晩おけば、オイカワやモロコやコブナがたくさん採れたし、すでにブルーギルも何匹か混じっていたように思う。

そんな豊かな池のことが私は大好きだった。けれど池の大半がヒシ藻に覆われてしまう夏があまり好きではなかった。理由は簡単。水面が覆われてしまっては魚の姿を見られないからだ。水温上昇による酸素不足を防ぐとともに、水中にシェードを作り出すヒシ藻は、魚たちにとってはこのうえないものだったが、当然ながらこれまでのように魚の姿は見えない。せいぜい見られるのはクサガメとウシガエルくらいで、私にとっては退屈で仕方がなかった。

この頃の私は、早く藻が枯れてまた魚が見えないかな……と思っていた。そして池を覗きに行く回数は日に日に減っていった。

そんなある日の夕方。母と一緒に市場へ出かけた帰り道で、西の空がどんどん黒く覆われていった。夕立がくる。まだ幼い私にも空模様が著しく変化しているのがわかった。それほどの急変化だったように思う。家まで小走りに駆ける母と私。なんとか降られる前に家へと辿り着いたが、そのすぐ後に雷鳴が轟き、ものすごい勢いで雨が降り出した。

私は居間の窓から、土砂降りの雨を眺めていた。ほんの少し前まであんなに明るかったのに、あんなに暑かったのに、今見ているのは嵐のような夕立。大きな雷の音に時々ビクっとしながら、ふと私の頭をよぎったのは、いつも見に行っていた池のことだった。

こんなに雨が降ったらきっと魚が暴れているにちがいない。その様子を見に行きたい。今すぐにでも行きたいけれど、さすがにそれは叱られる。もう少し雨が弱まったら行ってみよう。そう思った。

ほどなくして夕立は小降りになり、空が薄明るくなってきた。私は夕飯の支度に忙しい母の目を盗み、そっと家を出た。あちこちに水溜りができている砂利道を進み、私はいつもの池へとやって来た。

残念ながら魚たちが暴れている様子はなかったが、それでも何かあるんじゃないかと私は目を凝らしながら水面を覗き込んだ。するとヒシ藻の影で何か黒いものが動いたのだ。ちょっと遠くでよく見えないが、どうやらそれは少しずつ移動しながら私の方へ向かってきている様子だ。その証拠にヒシ藻が細かく揺れ動いている。しかもその範囲はかなり大きい。

魚か? 魚だったらかなりの大物だ。私の胸は期待に踊った。やはり夕立の直後に来てよかった。そんな風に思っていた。何物かわからないが、ソレはいよいよ近づいてくる。次のヒシ藻の切れ間を通過する時に、その姿が見えるはず……。

次の瞬間、私の目に飛び込んできたのは、大きな口、つぶらな黒い目、大きな細長い顔、何より特徴的な網目模様……。「大蛇だ!」私はそう叫んでいた。間違いない。図鑑で見たことがある。あれはニシキヘビだ。たしか東南アジアかどっかにいる大蛇で、シカやウマさえも丸呑みにするという。その大蛇がこの池にいる‼︎

一大事だと思った。そして大変なものを目撃してしまったと思った。ニシキヘビの方から人を攻撃はしないと思ったが、それでも早く大人に知らせないといけないと思い、急いで家へ戻り、母にニシキヘビを目撃したと話したが、相手にしてくれなかった。それどころか、勝手に出かけたことをこっぴどく叱られた。

その日の夕食後、夕方に黙って出歩いたことを母から伝え聞いた父が私を呼んだ。きっと叱られるのだろうと思いながらも、ニシキヘビを目撃したことはちゃんと伝えなきゃいけない。もし捕獲するのなら何か手伝いをしたい、第一発見者だからいいいでしょ、ねぇいいでしょ、そんな風に思っていた。

意外にも父は私が出歩いたことを叱りはしなかった。出かける時は母にひとこと言うように、と釘を刺された程度だった。どうも父の興味はニシキヘビの方にあったようだ。とはいえ、私の目撃証言を鵜呑みにするのではなく、見たままをもう一度話すように言われた。

私はソレがヒシ藻のすぐ下を進んできたこと、大きな口と黒い目、網目模様の細長い体が見えたことを伝え、ニシキヘビじゃないとしても、きっと他の大蛇に違いないと懸命に訴えた。

ひとしきり私の主張を聞いていた父だったが、私が不満そうにしているのを見かねてか、おもむろに立ち上がって書棚から一冊の本を取り出した。どうやらそれが釣りの本らしいことは私にもすぐわかった。パラパラとページをめくっていた父の手が止まり、お前が見たのはこういう模様じゃなかったか?と、とある魚の写真を見せてくれた。

 

そこにあったのは、まるでヘビのような顔つきをした、網目模様の大きな魚の姿だった。

この魚はライギョという名前であること。空気を吸いに時々水面に口を出して息継ぎすること。だから水面近くで見かけやすいこと。親魚が稚魚を守って育てること。歯が鋭いから一人で釣りに行こうと思ってはいけないことなど、父は私にいろいろと教えてくれた。

 

正直に書くと、私は今でもニシキヘビだったのではないか?と思っている(笑)。けれど、これが私のライギョとの初めての遭遇だったとすると、かなりインパクトがあったように思う。ルアーフィッシングやフライフィッシングに出会うずっと前。もちろんブラックバスと出会うずっとずっと前のこと。

1970年代後半、私が住んでいたのが関西で、分布域を整理して考えるとカムルチーよりもライヒー(タイワンドジョウ)だった可能性もあるわけで……という話はさておき、カムルチーであれライヒーであれ、私にとってはどちらもライギョで全然OKなのです(笑)。後日談になるけれど、その池にはかなり古くからライギョが生息していて、1メートル近い個体が何度も捕獲されていたそうな。

いまではその池も半分以上が埋め立てられ、護岸されてアシ原は消え、フェンスが張り巡らされ、ご多分に漏れず釣り禁止の看板が立ってしまっていると聞く。それでもあの日見た、あのライギョの子孫たちが生命をつないでくれていればと切に願う。

青々と茂った健康的な水草の水辺を見ると、そんな昔のことを思い出してしまうのでした。

それでは、また。